はじめに:ITベンチャーが直面する労務リスクとは
新たなサービスを世に送り出し、急成長を目指すITベンチャーやスタートアップ企業の経営者様にとって、最大の課題は「優秀な人材の確保」ではないでしょうか?
特にエンジニアやデザイナーといったクリエイティブ職の採用においては、他社との差別化を図るために「自由で柔軟な働き方(フレックス、リモートワーク)」や「成果に見合った給与」を提示することが求められます。
しかし、ここに大きな落とし穴があります。「ベンチャーだから細かいことは後回し」「ネットのひな形契約書でとりあえず雇用」このように創業時の労務管理を軽視した結果、事業が軌道に乗ったタイミングで数百万円単位の未払い残業代請求を受けたり、IPO審査で重大な指摘を受けたりするケースは珍しくありません。
本記事では、IT業界に特化した支援を行う社労士の視点から、スタートアップが創業時に絶対に押さえておくべき「労務の急所」と、その対策について解説します。法律の専門知識がない経営者様にも分かりやすく、かつ実務で即活用できる内容をお届けします。
固定残業代制度の正しい導入方法と法的要件

IT業界の求人で非常に多く見られるのが「固定残業代(みなし残業)」の導入です。例えば、「月給35万円(45時間分の固定残業代を含む)」といった給与体系です。
これは、額面給与を高く見せることができ、かつ毎月の残業代計算の手間を省けるため、多くの経営者が導入を希望されます。しかし、この制度は「導入すれば残業代を払わなくて良い」という魔法の杖ではありません。
固定残業代が法的に有効となる要件
固定残業代制度が法的に有効と認められるためには、判例法理に基づき以下の要件を厳格に満たす必要があります。
1. 明確な区分 基本給と固定残業代の金額が明確に分けられていること。たとえば「月給35万円(基本給25万円、固定残業代10万円を含む)」のように、金額を具体的に区分して記載します(判別可能性の要件)。
2. 割増賃金分としての合意 一定額の手当が、残業に対する対価と認められること。雇用契約の記載内容や固定残業代に関する説明内容、従業員の実際の勤務状況などの事情を考慮して判断されます(対価性の要件)。
契約書の記載ミスが招く「二重払い」のリスク
もし、雇用契約書や就業規則の記載が曖昧で、これらの要件を満たしていないと判断された場合どうなるでしょうか。
最悪の場合、制度自体が「無効」となります。
その結果、支払っていたはずの固定残業代は「単なる基本給の一部」とみなされ、会社は過去に遡って正しい単価で計算し直した残業代を「二重払い」させられることになります。
なお、賃金請求権の消滅時効は、2020年4月1日の法改正により、それ以降に発生した賃金債権については3年(当面の措置として。将来的には5年)となっています。創業期のキャッシュフローにとって、この突発的な支出は致命傷になりかねません。
実務上の留意点
固定残業代制度を導入する場合は、以下の点にも注意が必要です。
・給与明細にも基本給と固定残業代を区分して記載する
・実際の残業時間を毎月集計し、固定残業代の設定時間を超過した場合は必ず差額を支払う
・求人広告や面接時の説明でも、制度の内容を正確に伝える
形式だけ整えても、運用が伴わなければ意味がありません。
裁量労働制の誤解とフレックスタイム制という選択肢

「うちは成果主義だから時間は管理しない。エンジニアは全員、裁量労働制にしたい」
これも創業時のご相談で非常に多い要望です。
しかし、結論からいうと、創業間もないベンチャーが専門業務型裁量労働制を安易に導入するのは極めて危険です。
専門業務型裁量労働制の法的要件
専門業務型裁量労働制は、労働基準法第38条の3に基づく制度であり、対象となる業務が同法施行規則第24条の2の2で厳格に限定されています。
IT関連では、以下のような業務が対象となり得ます。
・新商品や新技術の研究開発業務
・情報処理システムの分析または設計の業務
・ゲーム用ソフトウェアの創作業務
・デザイナーの業務(新たな技術や商品の開発に係るもの)
一方で、単なるプログラミング業務(指示を受けてコーディングを行う業務)、既存システムの保守運用、Webサイトの更新業務などは、「業務の遂行方法を大幅に労働者の裁量に委ねる必要がある」という要件を満たさず、対象外となるケースが多くあります。
導入のハードルと必須手続
また、導入には以下の手続が必須です。
- 労使協定の締結(労働者の過半数代表者または過半数労働組合との間で)
- 労働基準監督署への届出
- 健康・福祉確保措置の実施
- 苦情処理措置の整備
要件を満たさないまま運用していると、違法状態となり、本来支払うべき残業代の未払いという問題に直結します。また、労働基準監督署の臨検時に是正勧告を受けるリスクも高まります。
代替案としての「フレックスタイム制」
「自由な働き方」を実現したいのであれば、法的リスクの高い裁量労働制に固執する必要はありません。
労働基準法第32条の3に基づく「フレックスタイム制」であれば、始業・終業時刻を従業員に委ねることができ、コアタイム(必ず勤務すべき時間帯)の設定次第で十分な柔軟性を持たせつつ、法的な管理もしやすくなります。
フレックスタイム制の導入には、労使協定の締結と就業規則への規定が必要ですが、裁量労働制よりもはるかに導入しやすく、多くのIT企業で実際に活用されています。
自社のフェーズと職種に合わせて、最適な制度を選択することが重要です。
リモートワーク時代の労働時間管理と安全配慮義務
オフィスを持たず、フルリモートやハイブリッドワークで創業する企業も増えました。
ここで見落とされがちなのが、企業の「安全配慮義務」です。
労働契約法に基づく安全配慮義務
労働契約法第5条は、「使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体などの安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする」と定めています。
この義務は、オフィス勤務であろうとリモートワークであろうと変わりません。以下のような状況を放置することは、安全配慮義務違反となる可能性があります。
・SlackやChatworkのログが深夜2時や休日に頻繁に残っている
・Zoom越しで顔色が悪いが、業務進捗の話しかしていない
・テキストコミュニケーションの齟齬でストレスを抱えている
リモートワークにおける労働時間管理
労働基準法第38条の2(事業場外労働のみなし労働時間制)が適用できるのは、「労働時間を算定し難いとき」という限定的な場合のみです。
現代では、パソコンのログ、業務用チャットの履歴、クラウドシステムへのアクセス記録などから労働時間の把握が可能であるため、単に「リモートワークだから労働時間は分からない」という主張は通りません。
なお、テレワークにおいて事業場外みなし労働時間制が適用できる要件として、「テレワークにおける適切な労務管理のためのガイドライン(厚生労働省|https://www.mhlw.go.jp/content/11911500/000683359.pdf)」では次を挙げています。
- 情報通信機器が、使用者の指示により常時通信可能な状態におくこととされていないこと
- 随時使用者の具体的な指示に基づいて業務を行っていないこと
実務上の対策
以下のような対策を講じることで、リモートワーク環境でも適切な労働時間管理と健康管理が可能です。
・PCログ管理ツールの導入(勤怠管理システムとの連携)
・定期的なオンライン1on1ミーティングの実施
・産業医によるオンライン面談の仕組みづくり
・深夜、休日のチャット利用制限などのルール設定
従業員がメンタルヘルス不調に陥り、それが過重労働に起因すると判断された場合、会社は損害賠償責任を問われる可能性があります。IT独自の就業環境に合わせた整備が必要です。
36協定と社会保険加入|見落とされがちな基本義務

残業や休日労働をさせるうえで必須の届出である「36協定」について説明します。
これは労務管理の最も基本的な義務の一つですが、創業時に見落とされがちです。
36協定とは何か
労働基準法第36条に基づく労使協定のことを、一般に「36(サブロク)協定」と呼びます。
法定労働時間(1日8時間、週40時間)を超えて労働させる場合、または法定休日に労働させる場合には、この協定を締結し、労働基準監督署に届け出ることが義務付けられています。
36協定を締結せずに時間外労働をさせた場合、労働基準法第119条により、6か月以下の拘禁刑または30万円以下の罰金という刑事罰の対象となります。
社会保険の加入義務
また、従業員を1名でも雇用する場合、以下の加入義務が生じます。
労働保険
・労災保険:従業員を1名でも雇用したら必ず加入(労働者災害補償保険法第3条)
・雇用保険:週20時間以上勤務する従業員がいる場合は加入(雇用保険法第5条)
社会保険(健康保険・厚生年金保険)
・法人の場合:従業員数に関わらず必ず加入(健康保険法第3条、厚生年金保険法第6条)
・個人事業の場合:常時5人以上の従業員を使用する場合は加入義務あり(一部業種を除く)
これらの加入手続を怠ると、後から多額の保険料を遡って徴収されるだけでなく、IPOやM&Aの際に重大な指摘事項となります。
IPO・M&Aを見据えた労務デューデリジェンス対策
なぜ、これほどまでに初期の労務整備が重要なのでしょうか。
それは、労務リスクが「将来の企業価値(バリュエーション)」に直結するからです。
デューデリジェンスで指摘される労務リスク
将来、ベンチャーキャピタル(VC)からの出資、IPO(株式上場)、あるいはM&A(バイアウト)を目指す際、必ず投資家や買収企業による「デューデリジェンス(企業監査)」が行われます。
この監査において、以下のような事実が発覚すると、深刻な問題となります。
・未払い残業代の潜在リスクがある(固定残業代制度の不備など)
・36協定が締結されていない、または届出がされていない
・社会保険の加入漏れがある
・就業規則が作成されていない(常時10人以上の従業員がいる場合は作成・届出義務あり)
・雇用契約書が整備されていない、または内容が不適切
企業価値への影響
これらの指摘は、以下のような事態を招きます。
・企業価値(買収価格)の大幅な減額
・上場審査のストップまたは遅延
・M&A交渉の破談
・出資条件の悪化
創業時のたった数名の雇用契約の不備が、数年後に数億円、数十億円という機会損失を生む可能性があるのです。
特に、証券取引所の上場審査では、「労務コンプライアンス」が厳格にチェックされます。
過去の未払い残業代を全額清算してから上場申請をするという事例も珍しくありません。
今からできる対策
創業時から以下の点を押さえておくことで、将来のリスクを大幅に軽減できます。
・雇用契約書は弁護士または社労士のチェックを受けた上で使用する
・36協定、就業規則などの法定書類を適切に整備する
・労働時間管理の記録を正確に保存する
・社会保険・労働保険の加入手続を遅滞なく行う
・給与計算を適切に行い、記録を保存する
まとめ:攻めの経営を支える守りの労務管理

ITベンチャーにとって、スピードは命です。
しかし、アクセルを全開で踏むためには、タイヤ(基盤)がしっかりとしていなければ、カーブ(トラブル)で横転してしまいます。
私たち社労士の役割は、経営者の皆様の手足を縛ることではありません。「独自のビジネスモデルや柔軟な働き方を、今の日本の法律の中でどう適法に実現するか」を共に考え、リスクを排除して事業成長を加速させるパートナーです。
法律は守るべき「制約」ではなく、会社と従業員の双方を守る「ルール」です。
適切な労務管理によって、従業員は安心して働くことができ、経営者は本業に集中できる環境が整います。
これはまさに、私たちのWin-Winの関係を築く第一歩と言えるでしょう。
新規開業・ITベンチャー経営者様へ
以下に一つでも当てはまる場合は、求人を出す前に一度ご相談ください。
・これからエンジニアを1名でも採用する予定がある
・ネットで拾った雇用契約書をそのまま使おうとしている
・将来的にIPOやバイアウトを視野に入れている
・固定残業代制度や裁量労働制の導入を検討している
・リモートワークを前提とした労務管理の方法が分からない
上場企業の労務顧問経験のあるベテラン社労士が、貴社のビジョンに合わせた、「攻めの労務設計」をサポートいたします。
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